生きる理由を与えて、生きる意味を教えて

(いつからだ。この距離が、こんなに苦痛になったのは)




横でテレビを見ている彼女の手に、自分のそれを重ねてみる。
彼女の手と自分の手が言葉通り重なって、まったく同じ位置にあるばかりだった。



今までこんなにも、大きなもどかしさを感じたことがあっただろうか。
ザンザスは一人頭を悩ませる。
自分が九代目の実子でないと知ったとき、次期ボスになれないと知ったとき、
確かにこれに近い感覚に襲われたことを思い出した。
だが、それはどちらかといえば裏切られたという思いで、
つまりは絶望でもあり、それが憤怒に変わった。
切なさや、寂しさという感情など微塵も湧いてこなかった。

今はどうだろう。
己をすり抜けるこの世界の全てに、悲しみすら込み上げる。
何故か。
理由など簡単だ。
どうしても触れたいものがそこにあるからだ。
だが触れられない。

実際の距離は近くとも、色々な意味で二人は住む場所があまりに遠かった。
だから例えどれだけ手を伸ばしても届かないのだ。
『意識だけが別の世界に飛んでいる』という発想も、
あながち間違いではないかもしれない。

(……くだらねぇ)

自分ともあろうものが、たった一人の女に振り回されるなんて。

しかしそれすら今は、喜びの内の一部に含まれている。
多くの人間がいる中で、自分だけ特別だという意識。
小さな独占欲。淡い恋心。幼い感情。
話して、怒って、笑って、泣いて、悲しんで。
心臓は鼓動を増し、肺は締め付けられ、呼吸は苦しくなる。
彼女が発端となり、その全てが彼を狂わすのだ。

(………)

まだ一度だって呼んだことのない彼女の名前。
喉まで出かかる。が、いつも飲み込んでしまう。
彼女はさらりと、あの声で“ザンザス”と、そう呼んでくれるのに。

(…何も、出来ねぇ……)


「……ハァ」
「ため息を吐くと幸せが逃げるぜー」


テレビを見ていたんじゃなかったのか。
ザンザスは自分のため息に返事が返ってきて驚いた。


「迷信だろ」
「でも心配はいりません。吐いた分だけ吸い込めばOK。さんはいっ!」
「……やってられるか」


人の話を聞かない上に、何故か彼女は今テンションが高い。
それが自分の出す重い空気を入れ替える為だということを、彼は知らない。


「人生楽しまなきゃ損だよザンザス」
「こんな状態で楽しめるわきゃねぇだろ」
「いやいや? こんな状態だからこそ、でしょうに」


どうして自分がため息を吐いたのか、それを尋ねることなく彼女は楽しそうに笑う。
わかりにくい優しさを噛みしめ、喜びが湧き上がるの実感する。
ただ、それが問題の原因なのだ。

(いつだって、オレばかりが――)

――自分ばかりが、彼女を気にかけていると。

ことあるごとにそう思うのだ。
気にかけるのは、別に誰に頼まれたわけでもなく、こちらが勝手にしていること。
見返りなど求めても仕方がないというのはわかっている。

彼女にとって、自分はどんな存在なのか。
そもそも、彼女の中に自分がいるのだろうか。
もしも、なんの関心も抱かれていないというならば。


「……オレは、本当にここにいるのか…?」


知らず知らずのうちに口から零れ出たザンザスの言葉に、は目を丸くした。


「…………は?」














いる、いない。存在する、しない。
こういったことは、アイデンティティーとか、そういう問題以前のことで。
はザンザスの元気のないわけを、ようやく知ったような気がした。
彼も人間なんだな。
微妙に失礼なことを思いながら、は言う。


「世界中のみんなから認めてもらえなきゃ、それは存在しないことになるの?」
「…………」
「どうよ?」


確信しながら聞くに、気に喰わなそうなザンザス。


「……ならねぇな」
「でしょ?もしそうだったら、この世に生きる全ての人が存在しなくなっちゃう。
 でも逆に、世界でたった一人であろうと、誰かがその人を認めたら、
 その人はそこに居るし、それ、というものは人に成るんだよ」
「…………」


それは確かに。
納得できなくはない理由だ。

(コイツの特技は人を丸めこむことなんじゃねぇのか)

いつも頷かざるをえない正論を言われ、ザンザスは悔しいらしい。
本人はただ自分の考え方を語るのみだが、逆にそこがいいのかもしれない。


「私はザンザスがここにいること、ちゃんと知ってるよ。
 ここにいなくたって、ザンザスという人物がいることを知ってる。
 それじゃ存在証明として不十分?」
「……十分だ」


彼女の紡ぐ言葉の羅列は、大きな結果を生む。
ザンザスの不安など、一瞬にして消し去ってしまうくらいに。

ありがとう。
本心でもあるその言葉は、彼の口から発せられることはなかった。
おそらくはこれからもないだろう。
いや、言う必要などないのだ。
先に比べて彼の穏やかになった態度が、それを物語っているのだから。
それだけで彼女には伝わる。


「それにね、ザンザス」


は優しく笑う。


「この世界も貴方がここにいるって、ちゃんと認めてるよ」


が天井からぶら下がる部屋の明かりを指差した。
次に目線を下へと向ける。

照らされた二つの影。
一つは他人には見えないのだろう。
しかし確実に二人の目には映ったのだ。

ザンザスと、の、手を繋いだように重なる二つの影が。