君には一生敵わないのだろうと、
喜びによく似た諦めで、笑ってしまった(後編)
(穏やかすぎる永遠の敗北が、ここに決定した)
しばらくしてザンザスは腕の拘束を緩めると、自分の首元に手をかけた。
そしてしゅるという音と共に外し、代わりにそれをの首に掛ける。
「お前にこれを預ける」
「…? ネクタイ?」
ザンザスの真っ黒なネクタイがの首でひらひら揺れる。
今現在が着ているパジャマに、この上なく似合わないその預かり品。
渡される意図がわからなかった。
「いつか返せ」
「いやいやいや、急に何? どういうこと?」
具体的な説明を要求する。
は目で訴えるがザンザスの目は遠いどこかを見ている。
「お前はこの俺が唯一そばに置きたいと願って止まねぇ女だ。
本当なら攫って、そのまま永遠に閉じこめて、……」
「……ザンザス?」
「俺には、お前だけだ」
そう言ってザンザスは優しくの頬を撫でる。
そして状況が飲み込めずがパチリと瞬きをする間に、ザンザスはさっきよりも強く彼女を抱きしめた。
かろうじで息は出来るが、圧迫された肺が苦しい。
「今が人生で最大の幸福かもしれねぇな」
「……」
このザンザスは随分とネガティブなようである。
マイナス思考の彼の台詞に、は腹立だしくもあり悲しくもあり、そして悔しかった。
この夢の中を、確かにも幸せだと感じた。
しかし、たかが夢の中。
ザンザスと同じ顔で同じ声で、ひどく不安定なこの世界を人生最大の幸福などと言ってほしくない。
ザンザスの幸せは、まだまだ未知数のはずなのに。
はキッと顔を上げ、強くザンザスを睨みつける。
「馬鹿っ!」
突然のの豹変にザンザスの腕の力が弱くなった。
は大きく息を吸い込んだ。
ザンザスはいきなり吐かれた言葉に戸惑っている。
「……オイ、馬鹿はねぇだろ」
「馬鹿だよ!馬鹿!何言ってんの!今が最大の幸福? 幸せナメんな!
ザンザスが過去にどれだけ辛い思いしたかは聞いたけど、だからって夢の中が幸福とか本当に馬鹿だよ!
これから先、未来はあるし希望はあるし!もっと大きな幸福があるだろ!」
荒々しくも見事に一息で言い切った。
感情の高ぶりに任せたまま捲くし立てたので、呼吸が乱れた。
聞いたザンザスは諦めた口調で言う。
「……オレはマフィアだ。ないかもしれねぇだろうが」
「ある!」
即答で否定。
そしてビッと親指で自分を指し、胸を張って断言した。
「私がもっとザンザスのこと幸せにしてやるよ!」
「……」
ザンザスはぽかんとして驚きのあまり声もなくを見つめる。
二人の目がばっちり合ったあと、ザンザスは吹き出した。
「ぶはっ!」
「(ギロッ)」
「、………」
笑ったザンザスを恐ろしい鋭さで睨む。
それを見てザンザスはとりあえず口をつぐんだ。
の本気がひしひしと伝わってくる。
「」
「……なに」
怒っている。
ぶっきらぼうに返事をするに、ザンザスは任せたと告げた。
「幸せにしてもらおうか」
「! おうよ!首を洗って待っていろ!」
ザンザスが内心一番気に入っているの元気な笑顔。
それを見届けたザンザスは最後にもう一度、を強く抱きしめた。
されるがままになっていたはその異変に気付いた。
ザンザスの体が段々と透けてきたのである。
「、あれ?」
「時間か……」
落ち着いているザンザス。
こうなることを予期していたように見えた。
ザンザスはを離す。
その腕を掴もうとしたは、現実と同じように彼の体をすり抜けた感覚に目を見開いた。
「どうやら帰らなきゃいけないみてぇだ。……必ずそれは返しに来い。いいな?」
「え? ネクタイのこと?」
「そうだ。俺を幸せにすんだろ」
「まぁそうだけど……」
あれはその場の勢いだから言えたような台詞である。
改めて確認されるとなんだか恥ずかしい。
と、いうよりもこれは夢ではないのか。
ザンザスの体は半透明になっても未だ透明に近づこうとし続ける。
「またな、」
「う、うん。また……?」
そしてザンザスは完全に透明となり、の視界には映らなくなった。
消えてしまった。
「……よくわからん」
一人白い世界でぽつりと呟く。
それが合図だったように目が覚めた。
見慣れた天井、かかっている布団、雨戸がない小さな窓から差し込む朝日。
間違いなく自分の部屋である。
やはりあれは夢だったのかと、大きなため息をついて体を起こした。
「あー……。変な夢見たな、今日は」
そしてその変な夢のせいで目覚まし時計が起こしてくれる前に起きることが出来た。
時計はあと10分もすれば仕事をするだろう。
今日は有給でもとりなさいとはアラームを切った。
同時に部屋が静かすぎると感じる。
「……ザンザス?」
いつもならいるはずの幽霊がいない。
どういたものかとベッドから出て部屋をキョロキョロと見回す。
その動作でひらりと首元の黒い布が舞った。
「このネクタイ……」
パジャマの上から首に掛けられた黒いネクタイ。
たった一つの小さなアイテムが全てを物語っていた。
「……そうか。夢じゃ、ないんだ」
あの白い世界で、ザンザスは帰ると言っていた。
いつか称したように異世界へ帰ったのか、はたまた死んでないとのことだったので自分の体に帰ったのか、それはわからない。
だが、無事帰れたのなら良いことだ。
もうここにはザンザスはいない。
しかしそれを自覚しても不思議と寂しくはなかった。
ネクタイを返しに来いと念を押すかのように言われた。
今度はから会いに来いということだろうか。
「はっ、上等だ!」
いつか是非とも会いに行ってやる。
私の手で幸せにしてやる。
そう決意してはネクタイを外し、用意していた制服のYシャツに引っかけた。
預けられたのだ。託されたのだ。なくしてはならない。
常に持ち歩けばその危険性も減るだろうと、せっかく身に付けられる環境なのだからネクタイとしての役割を果たさせることにした。
それが出来るほどに校則が厳しくない学校に感謝しながら、は着替え始めた。