少年の名前もどうしてあんなところにいたのかなども、は全く知らない。
しかしお腹が減っていたということはわかった。
多めに作ったはずのうどんはもうない。ナベは見事なまでに空。
は食欲がこれだけあるなら安心だと少し笑った。
少年は不器用に箸を使いながら(途中で見かねてフォークを貸したが)、なんだか一生懸命に昼食を食べてくれた。
食べている間が無言だったのは、それだけ食事という行為に集中していたのだろうと考える。
黒い服、黒い髪、黒い瞳。
本当に全身で黒さを主張している少年だ。
目つきが悪いと思ったその目も、普通にしていれば鋭く綺麗な切れ長の一重。
鼻筋が顔の中心をすっと通っていて、左右のパーツが対称に並ぶ。
しゅっとした輪郭、あごのライン。さらさらの髪の毛。
容姿に関しては好みはあるだろうが文句の付けどころは一つもなかった。
こういう人を世間は美形というのかもしれないとは思った。
こぽこぽと少年と自分の分の紅茶を注ぐ。砂糖とミルクを用意する。
今は食後のティータイムだ。
そして同時にようやく一息ついてお喋りをする時間でもあった。
は紅茶に口をつけ、正面に座る少年に尋ねる。
「まず少年。君の名前は?」
「……それは、種族名を聞いているのか?」
―― なんだって? 種族名?
初っ端から噛み合わない会話に、思わず飲んでいた紅茶を吹きそうになる。
口の中に戻ってきた液体を無理やり飲み込もうとするとげほげほとむせた。
気管に紅茶が入ったようだ。
「けほっ、いや、種族名って……。そんなの聞くまでもないし。名前だよ、名前」
「名前はない」
「ぅゲホッ……」
再び気管に入りだす紅茶。そこは胃ではないのだよ止めてくれ。苦しい。
はカップを置き、一旦飲むことを止めた。
これ以上飲んでも逆流するばかりだと悟ったのだった。
代わりに少年に紅茶を勧める。
少年は一口紅茶を飲むと美味しいと言った。がお礼の代わりに微笑む。
「えーと、じゃあ親御さんとか、」
「親すら知らぬ」
「……き、君はどこに住んでるの?」
「わたしか? わたしはこれまで研究室にいた。飼われていたのだ」
「……」
―― 会話って、こんなに難しいコミュニケーションだったか?
聞かなきゃ良かったと激しい後悔がを襲った。
暗い。内容が暗すぎる。
名前がないとか、飼われていたとか、一体どういう反応を返せばいいのだろうか。
それは監禁とかそういう類の犯罪なのではないか。
―― どうしよう。どうすれば。
警察を呼ぶか? しかし呼んだところで解決になるわけでもない。
お昼が終わった時点でハイさようならとすれば良かったかもしれない。
でもそんな状態ではなかった。もっといい感じだったのだ。空気が。
ほのぼのとしていた。少年が(の手抜きな)うどんを誉めちぎって食べてくれた。
「じゃあ、なんであんなところで倒れてた、んですか?」
ひどく不自然な区切りの敬語になってしまった。
早くこの話題を止めて、どうでもいいような事をほのぼのと話したい。
しかしそんなことを話してどうすると、どこか冷静な自分がさせてくれない。
見も知らぬ少年を家の中に入れてしまったのだ。
家から出すのは、少年がどんな人物なのか確かめなくては危ない。
今は少年より、少年の境遇が危ないのはわかったが。
心がやけにパニックになる。それを顔には出さないよう、懸命に心がけた。
「逃げてきたのだ。研究室からどうやってここまで来たのかはよく覚えていない。
ただ目が覚めたらあの場所にいて、貴女が誰かに連絡を取っていたので焦った」
それを聞いて、だからあの時あんなにも警戒していたのだと納得する。
「あー……。ゴメン、救急車呼ぼうかと思って」
「……何故だ?」
「何故ってそりゃ君が具合悪そうだったからだよ。倒れてたし」
「わたしの為に呼ぼうとしたのか?」
「……君の為に呼ばないでどうするの……」
二度目だが、少年との話は噛み合わないので疲れる。
やれやれというようには大きなため息を吐いた。それを見ていた少年は眉を下げる。
「そうか……。では切って済まなかったな。
しかしどこからわたしが逃げたことが漏れるかわからないから、用心したかったのだ」
思わず聞き流してしまいそうな台詞を尋ねる。
「……え、何を切ったって?」
「電話だ。繋げた電話を切ったのはわたしなのだ」
「……いや、君電話に触れてもいなかったでしょ。無理じゃんそんなの」
「そうだな。普通はな」
少年の話が見えない。
まるで自分は普通でない人のような言い方をする。それは他人事であるかのような素っ気なさ。
なぜかとても悲しそうに見えるのはの勘違いだろうか。
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